■最近の小学生殺人について
2005年12月14日 教育 ちょっと考えたことを書いてみる。
最近小学生をターゲットにした犯罪が多い。
最初に言っておくとすれば小学生は大人からしたら弱者。
しかし人間として権利は持っていて、大人の小さい版ではなく一人の人。
だから殺されるのは許せない。
自分はこの前小学校へ教育実習で行ってきた。
小学4年生担当だったが、一通りの学年の子ども達と話をしたつもりだ。
元気いっぱいで可愛いかった。
この頃の子ども達は無邪気で本当に可愛い。
つい最近だ。
塾の子どもが邪魔だったということで殺害した大学生がいた。
ttp://www.asahi.com/kansai/news/OSK200512120002.html
正直…その気持ちはよく分からない。
確かに実習中憎たらしい子がいた。
これは認める。
自分だって人の子だ、憎たらしいとか思う事もある。
しかし、それから「殺そう」など思ったことは無い。
「あまり話しかけたくないな」とかそういうことは思った。
それが良いかと言われたら多分悪いことだ。
だけど自分は心がそこまで広いわけではない。
事件が起きたとき
『塾講師をしている人は子ども好きなのにどうして…』
という意見を見た。
…その認識自体間違っている気がする。
塾の講師って教育関係者ばかりじゃいんだよね、実は。
大学1年の時、某塾のバイトに少し行ったことがある、実は。
あー、あの時はちゃんと働こうとしてましたよ。
話がそれた。
そこで教育学部の人は結構少なかった。
工学部とか法文学部が多かった。
あと
『塾はバイト代が高い』
という理由でしている人も結構いた。
多分いるだろう。
一言注意しておくとすれば、塾講師は皆そういう考えでしているけではないということ。
自分の経験を積むためにしている友人が何人もいる。
だから全員が全員そういう危険性を秘めているとは思わないで欲しい。
少し余談が過ぎたようだ。
こういう事件がある度に国と自治体は
「悲惨な事件が二度と起きないように対策をしなければ」
と慌てる。
ボランティアで通学路の巡回をしたり、スクールバスを購入したりして対策をしている。
素早い対策をしているところには感心する部分がある。
しかし、これで大丈夫かと言われれば疑問が生じる。
「人目があれば犯罪が減る」
基本的な考え方だ。
だからこそ保護者達が見回りをして怪しい人がいないか確認するという方法がとられる。
子どもに何かあったときは親がすぐに駆けつける事が出来る。
「危険な場所を減らす」
死角になるようなところを減らすことで子どもが犯罪に巻き込まれる可能性を減らす。
防犯カメラなどを使い死角を減らす策も取られているようだ。
まるで「被害に遭いそうな人を監視している」ように見えるが…
少し勝手な事を語る。
保護者や自治体がいくら頭を使って子どもを守ろうとしても多分効果があるのは少しだけだろう。
スクールバスは危険と判断された所にのみ行くらしい。
防犯カメラも危険と判断されたところに重点的に置くとのことで。
じゃその「危険な場所」ってどこ?
今朝とくダネ!で少し扱っていたのを見て改めて感心したのだが
「大人と子どもでは危険な場所の認識が異なる」
つまり大人が危険と判断しても実は子どもからしたら対してそこは危険でなかったり、別の場所が危険だったりあるわけだ。
自分の体験で話すと、小学生時代自分は登下校でよく怪我をした。
今考えるとたいしたことが無い場所で。
たとえば側溝。
間に足が挟まってそのまま転倒。
たとえ木の切り株。
つまずいて切り株の枝で膝を怪我する。
などなど。
今考えるとなんともない場所なのだ、実は。
最初に書いたことに戻るのだが子どもは大人の縮小版では無い。
考え方も子ども独特のものがあったりするわけだ。
大人の考えでは分からない事がたくさんある。
国や自治体の対応も必要だ。
それは抑止力になる、あくまでも「小学生を殺そう」とか思っている一部の人には。
だけど一番重要なのって子どもとの話じゃないだろうか。
実習中子ども達から登校中の事を何度も話された。
『○○さんの家に犬がいてね、よく吠えて噛みつこうとして怖い』
『あの土手ね、滑ると楽しいんだよ』
かなりしゃべってくれた。
今考えれば犬は怖くて噛まれたらどうしようという危機感を持っている。
土手だって多分怪我をする要因があるかもしれない。
そう考えれば子ども達は単に話しているのだろうがもしかしたら
「こういう危険があるんだよ」
と知らせていたのかもしれない。
子どもを一人の人と考えて、大切と思うのであれば子どもの目線に立つことも重要なのかもしれないな。
子ども時代登下校はすごく楽しみだったはず。
知らない道を見つけて歩いたり、途中で遊んだり。
あの楽しい思い出を自分たちぐらいの年になれば懐かしい思い出として振り返る事が出来る。
毎日保護者と一緒に帰るのもまた楽しいものだろう。
しかし子ども同士で話すから楽しいものもあるし、自由に寄り道が出来るから見つかるものだってあるはずだ。
きっと亡くなった子ども達もそういうことを楽しみにしていたのではないだろうか。
安全と子どもの楽しみ。
優先するとしたら絶対に前者だ。
しかし後者が完全になくなるのは偲びがたい。
大学生になっても登下校が楽しみの自分の考え方だけどね…
やっぱり子どもにはいろいろなものを見てもらって大きくなって欲しいわけで。
そんな生活していたらきっと子どもを殺すなんてできないと思うんだけどな。
だって小学校生活が楽しいって分かっていてそれを奪う事なんてしたくないだろうし。
最近小学生をターゲットにした犯罪が多い。
最初に言っておくとすれば小学生は大人からしたら弱者。
しかし人間として権利は持っていて、大人の小さい版ではなく一人の人。
だから殺されるのは許せない。
自分はこの前小学校へ教育実習で行ってきた。
小学4年生担当だったが、一通りの学年の子ども達と話をしたつもりだ。
元気いっぱいで可愛いかった。
この頃の子ども達は無邪気で本当に可愛い。
つい最近だ。
塾の子どもが邪魔だったということで殺害した大学生がいた。
ttp://www.asahi.com/kansai/news/OSK200512120002.html
正直…その気持ちはよく分からない。
確かに実習中憎たらしい子がいた。
これは認める。
自分だって人の子だ、憎たらしいとか思う事もある。
しかし、それから「殺そう」など思ったことは無い。
「あまり話しかけたくないな」とかそういうことは思った。
それが良いかと言われたら多分悪いことだ。
だけど自分は心がそこまで広いわけではない。
事件が起きたとき
『塾講師をしている人は子ども好きなのにどうして…』
という意見を見た。
…その認識自体間違っている気がする。
塾の講師って教育関係者ばかりじゃいんだよね、実は。
大学1年の時、某塾のバイトに少し行ったことがある、実は。
あー、あの時はちゃんと働こうとしてましたよ。
話がそれた。
そこで教育学部の人は結構少なかった。
工学部とか法文学部が多かった。
あと
『塾はバイト代が高い』
という理由でしている人も結構いた。
多分いるだろう。
一言注意しておくとすれば、塾講師は皆そういう考えでしているけではないということ。
自分の経験を積むためにしている友人が何人もいる。
だから全員が全員そういう危険性を秘めているとは思わないで欲しい。
少し余談が過ぎたようだ。
こういう事件がある度に国と自治体は
「悲惨な事件が二度と起きないように対策をしなければ」
と慌てる。
ボランティアで通学路の巡回をしたり、スクールバスを購入したりして対策をしている。
素早い対策をしているところには感心する部分がある。
しかし、これで大丈夫かと言われれば疑問が生じる。
「人目があれば犯罪が減る」
基本的な考え方だ。
だからこそ保護者達が見回りをして怪しい人がいないか確認するという方法がとられる。
子どもに何かあったときは親がすぐに駆けつける事が出来る。
「危険な場所を減らす」
死角になるようなところを減らすことで子どもが犯罪に巻き込まれる可能性を減らす。
防犯カメラなどを使い死角を減らす策も取られているようだ。
まるで「被害に遭いそうな人を監視している」ように見えるが…
少し勝手な事を語る。
保護者や自治体がいくら頭を使って子どもを守ろうとしても多分効果があるのは少しだけだろう。
スクールバスは危険と判断された所にのみ行くらしい。
防犯カメラも危険と判断されたところに重点的に置くとのことで。
じゃその「危険な場所」ってどこ?
今朝とくダネ!で少し扱っていたのを見て改めて感心したのだが
「大人と子どもでは危険な場所の認識が異なる」
つまり大人が危険と判断しても実は子どもからしたら対してそこは危険でなかったり、別の場所が危険だったりあるわけだ。
自分の体験で話すと、小学生時代自分は登下校でよく怪我をした。
今考えるとたいしたことが無い場所で。
たとえば側溝。
間に足が挟まってそのまま転倒。
たとえ木の切り株。
つまずいて切り株の枝で膝を怪我する。
などなど。
今考えるとなんともない場所なのだ、実は。
最初に書いたことに戻るのだが子どもは大人の縮小版では無い。
考え方も子ども独特のものがあったりするわけだ。
大人の考えでは分からない事がたくさんある。
国や自治体の対応も必要だ。
それは抑止力になる、あくまでも「小学生を殺そう」とか思っている一部の人には。
だけど一番重要なのって子どもとの話じゃないだろうか。
実習中子ども達から登校中の事を何度も話された。
『○○さんの家に犬がいてね、よく吠えて噛みつこうとして怖い』
『あの土手ね、滑ると楽しいんだよ』
かなりしゃべってくれた。
今考えれば犬は怖くて噛まれたらどうしようという危機感を持っている。
土手だって多分怪我をする要因があるかもしれない。
そう考えれば子ども達は単に話しているのだろうがもしかしたら
「こういう危険があるんだよ」
と知らせていたのかもしれない。
子どもを一人の人と考えて、大切と思うのであれば子どもの目線に立つことも重要なのかもしれないな。
子ども時代登下校はすごく楽しみだったはず。
知らない道を見つけて歩いたり、途中で遊んだり。
あの楽しい思い出を自分たちぐらいの年になれば懐かしい思い出として振り返る事が出来る。
毎日保護者と一緒に帰るのもまた楽しいものだろう。
しかし子ども同士で話すから楽しいものもあるし、自由に寄り道が出来るから見つかるものだってあるはずだ。
きっと亡くなった子ども達もそういうことを楽しみにしていたのではないだろうか。
安全と子どもの楽しみ。
優先するとしたら絶対に前者だ。
しかし後者が完全になくなるのは偲びがたい。
大学生になっても登下校が楽しみの自分の考え方だけどね…
やっぱり子どもにはいろいろなものを見てもらって大きくなって欲しいわけで。
そんな生活していたらきっと子どもを殺すなんてできないと思うんだけどな。
だって小学校生活が楽しいって分かっていてそれを奪う事なんてしたくないだろうし。
今週末からちゃんと教採の勉強をしてますよ〜と言ってみる。
遅すぎ。
まぁそこはひとまず置いておくとして。
こういう時期だから考える事でも書く事にしよう。
教採って結構忙しいなというのが印象。
資料提出とか結構しないといけないし、ついでに遠出の場合泊まる所なども考えないといけない。
就職活動と比べたら雲泥の差かもしれないけど。
何となくしょげる。
話変わって。
現在障害児教育について勉強中。
別に勉強しないでも、と思ったがやはり正確な知識とかは身につけておこうかと思って…
ランナーの方が結構間違っているのだけど。
後日専門書でも読んで確認する事にしよう。
せめて最新版だったら「特殊教育」を「特別支援教育」にして欲しかった。
そこで思ったのだけど…
鹿児島のパンフの先頭に
「心身ともに健やかで明朗活発な教師」
この「心身ともに健やかで」って何を意味しているのだろうか、と。
「健やか」というのがどういう意味か気になったので確認。
『丈夫なさま。健康であるさま。しっかりしているさま』
あっさり考えたら
「心身ともに健康」
そういうことか、漢字の通りだな。
…えー、つまり自分はすでに募集要項の前にダメですか?
求める教師の一発目で否定されてるのだが。
さすがに鬱病の人はダメなのは分からないでもない。
情緒不安定だし。
だけど、身体障害の人とかどうなるの?
これ見てどう思うんだろう。
自分が深く考えすぎと言われたらそれまでの話なのだけど。
一応募集要項には障害者特別選考という記述はある。
申請要項というものがあるのだけど、結構またひっかけみたいな印象を受ける。
・免許状の保有
・年齢制限
・欠格事項に該当しないこと
・県内どこにでも赴任できること
また条件が厳しいこと。
なぜか障害を持っている人は「県内に居住していること」が条件らしい。
何のために?
理由も無しにこういう事をいうのはないだろうし。
自力で通勤は誰でも該当することだけど、それが僻地とかでも大丈夫ですか、ということだろうな。
公共機関がないところでも大丈夫かということか。
なんかかなり厳しくなってきた。
決定打は「県内どこにでも赴任できること」。
配慮のかけらも無いようだな、この県は。
健常者と一緒の扱いが出来る障害者を捜しているようにしか見えないのだが。
一応聾唖の方だったらどうにかなりそうだ。
盲の方でも視力によるが出来る可能性もあるだろう。
肢体不自由もそこまで過酷で中ったら大丈夫。
今まで知り合ってきた方の何人かは大丈夫だと自分では思っている。
数少ないけど…
それも心臓疾患とかだし(手話を習った先生は心臓疾患を持っていたし)。
宮崎では今年だったかな、聾唖の先生が誕生したし。
正直今までこう書いてきて…教育委員会って結局やる気ないんだろうなと思ったり。
県内どこでも赴任可能って…
もし聾学校に勤める事になったら県内に1カ所しかない。
それなの県内どこでもは変だろう。
あと…1時間ほど書いている時にずっと探しているのだが「障害者特別選考」というのはどこにあるのか必死に探していた。
鹿児島の場合
http://www.pref.kagoshima.jp/home/somuka/h18kyousai/kyousai1.pdf
下から3番目に「斜めになって」出ているのでそれを印刷したら良いらしい。
他の用紙も斜めに…
本気でやる気が見られないな。
なんか揚げ足をとっているように感じるが、たぶん現実はこれだろうな。
自分としては出来る限り想定とかは抜いて書いたつもりだ。
最後に。
宮崎と鹿児島のパンフレットを比べるだけでも結構な差があるな、と。
白黒とカラーの時点で…
○鹿児島
http://www.pref.kagoshima.jp/home/somuka/h18kyousai/kyousyokupanfu.pdf
○宮崎
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kyoiku/kyoshoku/bosyu-annai/pdf/kyoushoku_panfu.pdf
(※かなり重いので注意)
宮崎の方はかやり重いけど…Q7とかそこを見てもらえたらなと思う。
なんか待遇違うなぁ。
遅すぎ。
まぁそこはひとまず置いておくとして。
こういう時期だから考える事でも書く事にしよう。
教採って結構忙しいなというのが印象。
資料提出とか結構しないといけないし、ついでに遠出の場合泊まる所なども考えないといけない。
就職活動と比べたら雲泥の差かもしれないけど。
何となくしょげる。
話変わって。
現在障害児教育について勉強中。
別に勉強しないでも、と思ったがやはり正確な知識とかは身につけておこうかと思って…
ランナーの方が結構間違っているのだけど。
後日専門書でも読んで確認する事にしよう。
せめて最新版だったら「特殊教育」を「特別支援教育」にして欲しかった。
そこで思ったのだけど…
鹿児島のパンフの先頭に
「心身ともに健やかで明朗活発な教師」
この「心身ともに健やかで」って何を意味しているのだろうか、と。
「健やか」というのがどういう意味か気になったので確認。
『丈夫なさま。健康であるさま。しっかりしているさま』
あっさり考えたら
「心身ともに健康」
そういうことか、漢字の通りだな。
…えー、つまり自分はすでに募集要項の前にダメですか?
求める教師の一発目で否定されてるのだが。
さすがに鬱病の人はダメなのは分からないでもない。
情緒不安定だし。
だけど、身体障害の人とかどうなるの?
これ見てどう思うんだろう。
自分が深く考えすぎと言われたらそれまでの話なのだけど。
一応募集要項には障害者特別選考という記述はある。
申請要項というものがあるのだけど、結構またひっかけみたいな印象を受ける。
1.第2の「受験の資格」を満たす者ちなみに「受験の資格」というものは
2.身体障害者福祉法第15条に定める身体障害者手帳(1級〜6級)の交付を受けている者
3.自力で通勤が可能であり、かつ介助を要しないで教員としての職務遂行が可能な者
4.鹿児島県内に居住する者(在学又は訓練所入所のため一時的に県外に居住する者を含みます。)
・免許状の保有
・年齢制限
・欠格事項に該当しないこと
・県内どこにでも赴任できること
また条件が厳しいこと。
なぜか障害を持っている人は「県内に居住していること」が条件らしい。
何のために?
理由も無しにこういう事をいうのはないだろうし。
自力で通勤は誰でも該当することだけど、それが僻地とかでも大丈夫ですか、ということだろうな。
公共機関がないところでも大丈夫かということか。
なんかかなり厳しくなってきた。
決定打は「県内どこにでも赴任できること」。
配慮のかけらも無いようだな、この県は。
健常者と一緒の扱いが出来る障害者を捜しているようにしか見えないのだが。
一応聾唖の方だったらどうにかなりそうだ。
盲の方でも視力によるが出来る可能性もあるだろう。
肢体不自由もそこまで過酷で中ったら大丈夫。
今まで知り合ってきた方の何人かは大丈夫だと自分では思っている。
数少ないけど…
それも心臓疾患とかだし(手話を習った先生は心臓疾患を持っていたし)。
宮崎では今年だったかな、聾唖の先生が誕生したし。
正直今までこう書いてきて…教育委員会って結局やる気ないんだろうなと思ったり。
県内どこでも赴任可能って…
もし聾学校に勤める事になったら県内に1カ所しかない。
それなの県内どこでもは変だろう。
あと…1時間ほど書いている時にずっと探しているのだが「障害者特別選考」というのはどこにあるのか必死に探していた。
鹿児島の場合
http://www.pref.kagoshima.jp/home/somuka/h18kyousai/kyousai1.pdf
下から3番目に「斜めになって」出ているのでそれを印刷したら良いらしい。
他の用紙も斜めに…
本気でやる気が見られないな。
なんか揚げ足をとっているように感じるが、たぶん現実はこれだろうな。
自分としては出来る限り想定とかは抜いて書いたつもりだ。
最後に。
宮崎と鹿児島のパンフレットを比べるだけでも結構な差があるな、と。
白黒とカラーの時点で…
○鹿児島
http://www.pref.kagoshima.jp/home/somuka/h18kyousai/kyousyokupanfu.pdf
○宮崎
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kyoiku/kyoshoku/bosyu-annai/pdf/kyoushoku_panfu.pdf
(※かなり重いので注意)
宮崎の方はかやり重いけど…Q7とかそこを見てもらえたらなと思う。
なんか待遇違うなぁ。
※23時37分改正完了
教採が近いからだろうか。
周りを見る目が自分でも変わったように感じる。
教採を受ける人。
院試を受ける人。
就職活動中の人。
教育学部内でも結構な道を考えている人がいるわけで。
結構誤解を招かれる事だが、教育学部生が全員教師を目指しているとは限らない。
大学入学当時はおそらく
「教師になるぞ」
という目的で入ってきた学生が大部分だったに違いない。
大部分と言っているのはそれが目的じゃない学科があるから。
生涯教育課程とかになると教師が目的では無いし。
4年間で考えを変える人も少なくは無い。
それは大学で別の道を見つけたり。
教採合格をあきらめたり。
自分のように教育実習でなれない事を自覚してしまったり。
毎度の事だけど
「大丈夫、君は教師になれる」
そういう人がいる。
「教育学部だから教師になるのが順当な道」
そんな事を言う人もいる。
気軽なものだ。
だけどそれで良いのか、と時々考える。
「こんな奴が教師になって良いのか」
根本的な部分の話だ。
もし、自分がなったとして。
たぶん途中で辞めるだろう。
今の状態だったらほぼ確実に。
自分の病は「躁鬱病」と決まった訳ではないかもしれない。
心理検査の結果も何かの間違いだったかもしれない。
少しばかり自分でも鬱病の事などは勉強している。
その中で語られていたものは再発率。
1度発病すれば再発率は50%以上になる。
確率は半々といったところだ。
だけど、1%の確率があればなるべきでは無い。
そう思う。
もし辞めたとしてそれで迷惑を被るのは生徒だ。
同僚の先生以前にたぶん生徒だ。
自分が小学生の時。
妹のクラスの新任担任は3日で辞めた。
始業式に来て。
次の日は学級会などをして。
その翌日辞めた。
妹は未だにその事を覚えているようだ。
そんな事だけはできたら避けたいからな。
身近なところでそんな先生見ているわけだし。
教えるのはやっぱり楽しいけどね。
そこはやっぱり自分が教師になりたいと思った原点だから。
今先生をしている人とか、以前先生をしていた人だったら分かるのかも。
考えたら最近の教師を巡る事情はかなり変わったのではないだろうか。
「でもしか教師」
という言葉がある。
一昔前は
『教師にでもなるか』
『教師しかない』
そんな時代だったという。
今の時代はというと
『これでも教師か』
『こんなことしかできないのか』
あまりにも様変わりしてしまっている。
そして教採の倍率も跳ね上がっている。
つまりは教師になる事が難しい状態。
なのにどうして今ここまで問題教師が出てきているのか。
ここは個人的な考えではあるが周りの考え方が変化したためだろう。
少なくとも教師の質はある意味向上していると思う。
しかし、それを見る目が変わった。
教師という「地位」が落ちたとも言える。
教師も同じ人、という見方が増えたためだろう。
そして指導方法が複雑化しすぎている。
個性に合わせた教育とか言っているが…
どういう教育?
聞けば現場の先生は答えてくれるのだろうか。
いろいろと教育方法ができているが、以前と比較して確実に複雑化・多様化している。
それを習得しきれていない教師が増えているのでは無いだろうか。
以前は教科書を読んで、内容をたたき込むだけで良かった。
それだけだったら誰にでもできることだ。
だが今の教育を見ると素人ができるものでもない。
まして新任教師がそんなところで教えろと言われたら困惑する。
そう考えれば教育現場も複雑化しているのかもしれない。
あと学校から離れて家庭の事情。
教育は学校で。
そんな単純な事じゃない。
学校教育の基盤は家庭教育あってのこと。
家庭である程度のしつけなどが行われて初めて成立するのが学校教育。
家庭が個を育てると言うなら学校は輪を育てると言えるだろう。
個性重視とか言いつつもできるだけの基礎はあるべきだ。
個性も限度ものということだ。
自分が言うのも何だけど。
最後に教師の心構えが変化した。
これが一番多いかもしれない。
以前は「成り行きでなったけど教師という立場だし」とか思っていたのでは無いだろうか。
今では「誰も見ていないし…」「生徒だけだし」。
そんな考えもありそうだ。
その前に人間性が問題の事も多いが。
夢は必ず叶う。
高校時代良く言われていたな。
所詮夢は夢だったのか、とパンフレットを見ながら思う事がある。
パンフレットの表紙
・心身ともに健やかで、明朗活発な教師
・高い専門性と幅広い教養をもつ教師
・情熱と使命感にあふれ、教育的愛情を持つ教師
・人間性豊かで的確なコミュニケーション能力を持つ教師
ことごとく自分の事否定されている感じがしないでもないな。
自分が教師を「する」事ができないと考え始めてから…
できたら他の人には無事子どもを教えて欲しいと思うようになった。
少なくとも…自分のできない分だけでも。
やっぱり中途半端で出て行って欲しくないし。
今年本気で教採を受けようとしている人たち。
こういう思いを持っている人がいる事分かってください。
そして現在教師をしている先生。
せっかく教師という仕事ができているので、どうか今から先生になる人たちが目標にできるような先生になってください。
教採が近いからだろうか。
周りを見る目が自分でも変わったように感じる。
教採を受ける人。
院試を受ける人。
就職活動中の人。
教育学部内でも結構な道を考えている人がいるわけで。
結構誤解を招かれる事だが、教育学部生が全員教師を目指しているとは限らない。
大学入学当時はおそらく
「教師になるぞ」
という目的で入ってきた学生が大部分だったに違いない。
大部分と言っているのはそれが目的じゃない学科があるから。
生涯教育課程とかになると教師が目的では無いし。
4年間で考えを変える人も少なくは無い。
それは大学で別の道を見つけたり。
教採合格をあきらめたり。
自分のように教育実習でなれない事を自覚してしまったり。
毎度の事だけど
「大丈夫、君は教師になれる」
そういう人がいる。
「教育学部だから教師になるのが順当な道」
そんな事を言う人もいる。
気軽なものだ。
だけどそれで良いのか、と時々考える。
「こんな奴が教師になって良いのか」
根本的な部分の話だ。
もし、自分がなったとして。
たぶん途中で辞めるだろう。
今の状態だったらほぼ確実に。
自分の病は「躁鬱病」と決まった訳ではないかもしれない。
心理検査の結果も何かの間違いだったかもしれない。
少しばかり自分でも鬱病の事などは勉強している。
その中で語られていたものは再発率。
1度発病すれば再発率は50%以上になる。
確率は半々といったところだ。
だけど、1%の確率があればなるべきでは無い。
そう思う。
もし辞めたとしてそれで迷惑を被るのは生徒だ。
同僚の先生以前にたぶん生徒だ。
自分が小学生の時。
妹のクラスの新任担任は3日で辞めた。
始業式に来て。
次の日は学級会などをして。
その翌日辞めた。
妹は未だにその事を覚えているようだ。
そんな事だけはできたら避けたいからな。
身近なところでそんな先生見ているわけだし。
教えるのはやっぱり楽しいけどね。
そこはやっぱり自分が教師になりたいと思った原点だから。
今先生をしている人とか、以前先生をしていた人だったら分かるのかも。
考えたら最近の教師を巡る事情はかなり変わったのではないだろうか。
「でもしか教師」
という言葉がある。
一昔前は
『教師にでもなるか』
『教師しかない』
そんな時代だったという。
今の時代はというと
『これでも教師か』
『こんなことしかできないのか』
あまりにも様変わりしてしまっている。
そして教採の倍率も跳ね上がっている。
つまりは教師になる事が難しい状態。
なのにどうして今ここまで問題教師が出てきているのか。
ここは個人的な考えではあるが周りの考え方が変化したためだろう。
少なくとも教師の質はある意味向上していると思う。
しかし、それを見る目が変わった。
教師という「地位」が落ちたとも言える。
教師も同じ人、という見方が増えたためだろう。
そして指導方法が複雑化しすぎている。
個性に合わせた教育とか言っているが…
どういう教育?
聞けば現場の先生は答えてくれるのだろうか。
いろいろと教育方法ができているが、以前と比較して確実に複雑化・多様化している。
それを習得しきれていない教師が増えているのでは無いだろうか。
以前は教科書を読んで、内容をたたき込むだけで良かった。
それだけだったら誰にでもできることだ。
だが今の教育を見ると素人ができるものでもない。
まして新任教師がそんなところで教えろと言われたら困惑する。
そう考えれば教育現場も複雑化しているのかもしれない。
あと学校から離れて家庭の事情。
教育は学校で。
そんな単純な事じゃない。
学校教育の基盤は家庭教育あってのこと。
家庭である程度のしつけなどが行われて初めて成立するのが学校教育。
家庭が個を育てると言うなら学校は輪を育てると言えるだろう。
個性重視とか言いつつもできるだけの基礎はあるべきだ。
個性も限度ものということだ。
自分が言うのも何だけど。
最後に教師の心構えが変化した。
これが一番多いかもしれない。
以前は「成り行きでなったけど教師という立場だし」とか思っていたのでは無いだろうか。
今では「誰も見ていないし…」「生徒だけだし」。
そんな考えもありそうだ。
その前に人間性が問題の事も多いが。
夢は必ず叶う。
高校時代良く言われていたな。
所詮夢は夢だったのか、とパンフレットを見ながら思う事がある。
パンフレットの表紙
・心身ともに健やかで、明朗活発な教師
・高い専門性と幅広い教養をもつ教師
・情熱と使命感にあふれ、教育的愛情を持つ教師
・人間性豊かで的確なコミュニケーション能力を持つ教師
ことごとく自分の事否定されている感じがしないでもないな。
自分が教師を「する」事ができないと考え始めてから…
できたら他の人には無事子どもを教えて欲しいと思うようになった。
少なくとも…自分のできない分だけでも。
やっぱり中途半端で出て行って欲しくないし。
今年本気で教採を受けようとしている人たち。
こういう思いを持っている人がいる事分かってください。
そして現在教師をしている先生。
せっかく教師という仕事ができているので、どうか今から先生になる人たちが目標にできるような先生になってください。
とでも名称を付けておくか。
一応下書き程度の気持ちで書いているので、まじめに受け取らないように。
結論から言うと、たぶん教育学部って必要ないと思う。
今の状態だったらってことで。
現状と何か変わったらたぶん必要と言えるだろうけど。
現状から言えばまず、教育に関する講義が微妙ということ。
心理学などは軽く触れる程度。教育学なんて「これ教育学?」って感じの講義まである。
あと、専門教科。
これは言うまでも無く、他の学部で代用がきく。
国語、社会、英語は法文学部。
数学、理科は理学部。
技術は工学部や農学部。
美術、音楽は芸術大学。
体育、保健は医学部。
残る家政科もどこかに入れる事が可能だろう。
そして教育学などを共通で集中して教えるだけでも十分な気がする。
現在でも工学部、法文学部などは水曜日に教育学部で講義を受ける事で高等免許だけなら取得することができる。
あと、障害児教育など本当に教育に関することとか、教育学など専門的な事をしたい人だけ教育学部に行けば良いのでは、というのが今の自分の考え。
まぁ難しい事だとは思うし、そんな事をしたら全国どうなる事か。
指導要領の改正は進んでいるし、教育基本法だって解説に向かっている。
その中であまり注目されていないのが教師の育成について。
本当だったらそういう指導要領などをちゃんと理解できる教師を育成する事も必要だと思うんだけど。
いろんなところで言われているように、教師は免許証とってすぐに運転しているような状態。
仮免許は教育実習で。卒検は採用試験。
そう考えたら危なっかしい状態で運転しているわけだし。しかも一人じゃなく生徒という客を乗せて。
なんだろうな。
ついでに専門知識がないと言われ続けているし。
そりゃそうだよな。理学部とか本格的な研究施設に比べたら教育学部の実験施設とかは本当に寂しい。
影で「教育学部だし」とか言われていそうな感じすら受ける。
その状態で専門教育とか言われても。
やっていること自体も高校の延長線上のことが多い感じ。理科においてはそんな感じ。
だったら理学部に理科教育専攻とでもして、実験施設を共有とでもした方が良いだろうし。
教授の数だって減らす事ができるだろうから大学にとっても良いことだと思うのだが…
教育学部を無くす事の弊害と言えばやっぱり複数免許のことだろうな。
いろんな学部に配置してしまったら今度は自由に他の教科ができないのだから。
そういうところが現在の教育学部の良いところだろう。
他の教科から学ぶ部分もたくさんあることだし。
幅広い知識、と言えば歓迎されるだろう。
教育学部にいる以上進む道は「教員」がほとんど。少なくとも教員養成課程にいる人は。
それを目的に進学してくる。
だが、それは「大学で進む道を変えないこと」を前提にしている。
それはあり得ない話だし、高校3年で人生をはっきりと決めてしまう人なんていないはずだ。
結局のところ、教育学部内部から見たら実は悲しいほど現実を見る事ができる訳で。
自分が教育学部だから他の学部が良いように見えるだけなのかもしれないな。
悲しい愚痴だな、所詮。
一応下書き程度の気持ちで書いているので、まじめに受け取らないように。
結論から言うと、たぶん教育学部って必要ないと思う。
今の状態だったらってことで。
現状と何か変わったらたぶん必要と言えるだろうけど。
現状から言えばまず、教育に関する講義が微妙ということ。
心理学などは軽く触れる程度。教育学なんて「これ教育学?」って感じの講義まである。
あと、専門教科。
これは言うまでも無く、他の学部で代用がきく。
国語、社会、英語は法文学部。
数学、理科は理学部。
技術は工学部や農学部。
美術、音楽は芸術大学。
体育、保健は医学部。
残る家政科もどこかに入れる事が可能だろう。
そして教育学などを共通で集中して教えるだけでも十分な気がする。
現在でも工学部、法文学部などは水曜日に教育学部で講義を受ける事で高等免許だけなら取得することができる。
あと、障害児教育など本当に教育に関することとか、教育学など専門的な事をしたい人だけ教育学部に行けば良いのでは、というのが今の自分の考え。
まぁ難しい事だとは思うし、そんな事をしたら全国どうなる事か。
指導要領の改正は進んでいるし、教育基本法だって解説に向かっている。
その中であまり注目されていないのが教師の育成について。
本当だったらそういう指導要領などをちゃんと理解できる教師を育成する事も必要だと思うんだけど。
いろんなところで言われているように、教師は免許証とってすぐに運転しているような状態。
仮免許は教育実習で。卒検は採用試験。
そう考えたら危なっかしい状態で運転しているわけだし。しかも一人じゃなく生徒という客を乗せて。
なんだろうな。
ついでに専門知識がないと言われ続けているし。
そりゃそうだよな。理学部とか本格的な研究施設に比べたら教育学部の実験施設とかは本当に寂しい。
影で「教育学部だし」とか言われていそうな感じすら受ける。
その状態で専門教育とか言われても。
やっていること自体も高校の延長線上のことが多い感じ。理科においてはそんな感じ。
だったら理学部に理科教育専攻とでもして、実験施設を共有とでもした方が良いだろうし。
教授の数だって減らす事ができるだろうから大学にとっても良いことだと思うのだが…
教育学部を無くす事の弊害と言えばやっぱり複数免許のことだろうな。
いろんな学部に配置してしまったら今度は自由に他の教科ができないのだから。
そういうところが現在の教育学部の良いところだろう。
他の教科から学ぶ部分もたくさんあることだし。
幅広い知識、と言えば歓迎されるだろう。
教育学部にいる以上進む道は「教員」がほとんど。少なくとも教員養成課程にいる人は。
それを目的に進学してくる。
だが、それは「大学で進む道を変えないこと」を前提にしている。
それはあり得ない話だし、高校3年で人生をはっきりと決めてしまう人なんていないはずだ。
結局のところ、教育学部内部から見たら実は悲しいほど現実を見る事ができる訳で。
自分が教育学部だから他の学部が良いように見えるだけなのかもしれないな。
悲しい愚痴だな、所詮。
教職を専門としている自分から言えば
「若者言葉は言葉じゃない」
と言えるかもしれない。
と言っても自分の言葉遣いはたぶん若者言葉に染まっているだろう。
教師を目指す以上言葉は何より重要視しないといけないこと。
授業は板書も含むが実際のところ話すことにウェイトが大きいのは否定しようがない。
そしてその言葉遣い、一挙手一投足は生徒の成長にも影響を与えること。
だから若者言葉は出来たら使うべきではない言葉ではある。
やはりちゃんとした日本語の基盤を持ってからそういう言葉は使うべきなのだろう。
メールで略語が発生した事は事実だと思う。
ただ自分はパケ代以前におそらく時間では無かろうか、と考えるのだが。
それは携帯以前のポケベルにも言える事かもしれない。
その時には今ほど普及していなかったし、女子高生が主に使用する程度だったはず。あとは医者など職場関係で。
今の携帯メールの原型とされるPメール(これはもしかしたら間違っているかもしれない)はそういった女子高生などもターゲットにして登場した。
あれから数年経ち、ずいぶんと様変わりしている。
今では当たり前になっている予測辞書。知っている人は分かるだろうが、2年前の携帯にはついていなかったのだ、実は。
以前使っていたSH07にはついていなかった。
だから一文字ずつ、正確に入力する必要性があった。
だったら略語にした方が確実性は上がるだろうし、時間短縮で相手に早く返事を送る事が可能になる。
そもそもVobdafoneにはパケット代という概念が無いので自分はそういう考えになっているのだろう(全角64文字までは送信2円、受信は基本的に無料で追加料金式)
あと、2ch語も若者言葉だろう。
今では掲示板だけでは無く、日常生活ですら使う人が出てきている。
やはり癖になってしまっているのか、それともそっちの方が感情を表しやすいからか。
どちらにしても基盤がないまま使う言葉には重みがない。
自分の日記もきっとそうだろう。軽い言葉ばかりで内容が全くつまっていない。
そういう言葉の羅列だけになっていることは反省しなければならない。
略語は時間と手間の節約には必要なことではある。
いちいちオペレーションシステムと言うよりは「OS」と言った方が早い。DNAだって「デオキシリボ核酸」なんていちいち言っているのは面倒だ。
だが、それは「OS=オペレーションシステム」と分かっている人が使うことが前提となっている。略語だけ知っていて、意味を知らないなど本当に意味がないことだ。
せめて日常会話ぐらいは基本をふまえた言葉を使いたいものである。
おそらくこの文章の中にも基本に忠実でない言葉はあるはずだ。あで読み返して切った修正したくなる自分がいるに違いない。
今は便利で使いやすくても後で読んで恥ずかしくない文章を書きたい。
「若者言葉は言葉じゃない」
と言えるかもしれない。
と言っても自分の言葉遣いはたぶん若者言葉に染まっているだろう。
教師を目指す以上言葉は何より重要視しないといけないこと。
授業は板書も含むが実際のところ話すことにウェイトが大きいのは否定しようがない。
そしてその言葉遣い、一挙手一投足は生徒の成長にも影響を与えること。
だから若者言葉は出来たら使うべきではない言葉ではある。
やはりちゃんとした日本語の基盤を持ってからそういう言葉は使うべきなのだろう。
メールで略語が発生した事は事実だと思う。
ただ自分はパケ代以前におそらく時間では無かろうか、と考えるのだが。
それは携帯以前のポケベルにも言える事かもしれない。
その時には今ほど普及していなかったし、女子高生が主に使用する程度だったはず。あとは医者など職場関係で。
今の携帯メールの原型とされるPメール(これはもしかしたら間違っているかもしれない)はそういった女子高生などもターゲットにして登場した。
あれから数年経ち、ずいぶんと様変わりしている。
今では当たり前になっている予測辞書。知っている人は分かるだろうが、2年前の携帯にはついていなかったのだ、実は。
以前使っていたSH07にはついていなかった。
だから一文字ずつ、正確に入力する必要性があった。
だったら略語にした方が確実性は上がるだろうし、時間短縮で相手に早く返事を送る事が可能になる。
そもそもVobdafoneにはパケット代という概念が無いので自分はそういう考えになっているのだろう(全角64文字までは送信2円、受信は基本的に無料で追加料金式)
あと、2ch語も若者言葉だろう。
今では掲示板だけでは無く、日常生活ですら使う人が出てきている。
やはり癖になってしまっているのか、それともそっちの方が感情を表しやすいからか。
どちらにしても基盤がないまま使う言葉には重みがない。
自分の日記もきっとそうだろう。軽い言葉ばかりで内容が全くつまっていない。
そういう言葉の羅列だけになっていることは反省しなければならない。
略語は時間と手間の節約には必要なことではある。
いちいちオペレーションシステムと言うよりは「OS」と言った方が早い。DNAだって「デオキシリボ核酸」なんていちいち言っているのは面倒だ。
だが、それは「OS=オペレーションシステム」と分かっている人が使うことが前提となっている。略語だけ知っていて、意味を知らないなど本当に意味がないことだ。
せめて日常会話ぐらいは基本をふまえた言葉を使いたいものである。
おそらくこの文章の中にも基本に忠実でない言葉はあるはずだ。あで読み返して切った修正したくなる自分がいるに違いない。
今は便利で使いやすくても後で読んで恥ずかしくない文章を書きたい。
どこの大学も今は学祭の準備をしているようで。かくいう自分は全く参加をしていない。むしろ学科の人たちに対し
「自分参加しないわ、今年」
と言ったのであって…正直どうもこういうお祭りごとは苦手なのだ。
何が駄目かと言われてもかなりあやふやなところがあるが、まじはあの団結力とかそういうのが苦手だ。あと協力とか。
分かる人には分かるだろうが行動が遅いのは協力とかそういう面で非常に鬱陶しく面倒な話になる。手際が悪いと余計に。どういうことをしてくれと言われてもぱっぱと行動に移せないので作業がはかどらないし、てきぱきできる人から見たらかなり鬱陶しい存在と言える。
これはさっさとできる人から見た場合で…
で、当の、いわゆる「とろい」と呼ばれる人たちから見ると…正直つらい。
自分では一生懸命しているのだが、どうしても人と比べると見劣りする。比べなければいいという人もいるだろうが協力とか言っている以上人と並んで進まないといけないわけで。
それがつらすぎる。
できる人はそれだけ努力しているし、話し合いとかにも積極的に参加しているから内容を理解できているからかもしれない。だけど、話を聞いても理解するまでに時間はかかるし(耳で理解するのがかなり苦手なのでだらだらとして説明などは苦手中の苦手)手際よく仕事をするためには何十回も同じことをしないと憶えられない。
大学生になるともうこういういいわけは聞かないもので。相手も大人だし、そこら辺は理解してくれる人もいる。けど自分が嫌なのだ…
足を引っ張っている感じがするし、それで参加しないとそれはそれで罪悪感がある。
前にも書いたように自分だって悩んだわけで。実習中からずっと学祭のことは言われ続けてきたし…だけど実習が終わってずっと立ち直ることができず、参加しても疎外感だけで。
なんか一生懸命になっている人の中に入るのって結構大変なんだよな。
中心になっている人たちはどうして全員参加をさせたがるのだろうか?義務だから?それが当たり前だから?みんなでした方が作業が早くなるから?
大学に義務なんてないとか入学先の直後に言われたことはもう憶えていないだろうなぁ。
ついでにみんなでしたら進むとかそういう問題じゃないし。やる気が無く、段取りも分からないのがきたところで作業が進むか、と。
だったら最初から「じゃ俺参加しないから」と言っておいた方がよっぽど良心的だろうというのが自分の考え。卑怯臭いし、逃げているような感じがするけど。
登校拒否とかでもだけど、行きたいのに行けない人を行かせることの方がよっぽど難しいんだよなぁ。大人をそういう記にさせることができたらたぶん登校拒否の子どもを登校させることとかできそうな予感がする。
学祭に行きたくない人は行かない旨を伝えてとっとと退散するに限る。その方が準備する人たちもいいだろう。たまに顔を出すぐらいだったら徹底的に休むとか。
とか言って学祭後もそういう状態だったら嫌だよなぁ。正直凹むぞ、自分。今のところそういう雰囲気は無いので一安心といったところかな。敵を増やしているのは変わりない。
中心にいる人たちはどうして来たくないのかそれぐらい聞いて欲しい。納得のいく意見だったらそれで認めてやけばいいだろうし、納得いかない意見だったら話し合えばいいだけだろ。
ちなみに自分の参加しない理由。
「やる気でないから」
半分事実。うつ状態の時に聞くから…
去年やる気出したんだけど極度のプレッシャーで結局手が動かなくなってその時発せられた
『この役立たず』
が未だにぐりぐりと締め付ける。好きで役立たずになったんじゃねぇよ!かなり悔しくて握り拳作ろうにも力が入らない手を見つつ惨めな思いになったのは学祭での思い出だ。
ということで今回学祭不参加の理由説明をここでしてみたり。
ただ、最後に一つ言うとしたら、一生懸命になることはいいことだと思う。きっと記憶に残るだろうし、それで仲間意識も芽生えるだろう。けどそういうのが苦手な人もいることを忘れないで欲しい、わがままだけど。
参加している誰かが嫌いだから。
集団行動が嫌だから。
やる気がないから。
だるいから。
いろいろと理由があるだろうが、参加することがいいことだとは自分は言わない。絶対参加しろというんだったら一言言ってやろう。
そういう参加できる環境作ってみろ。
強制とかそういう方法はいつかどこかでひずみが生じるもんだ。だったらみんなが参加したいと思うようにすれば今まで以上に参加するんじゃないかなぁと。
仲良しグループでたまって必死にやっていても仲良しグループじゃない人は全然興味持たないし、一生懸命やっているとアピールしても他人が一生懸命してどうして自分もしないと?とか思う人だっている。飲み会費とか払うからあとは勝手にしてとかいうのもいるだろう、もしかしたら。
参加していない人の理由を少しでも考えたら参加率向上とかできないだろうかと思う毎日。
「自分参加しないわ、今年」
と言ったのであって…正直どうもこういうお祭りごとは苦手なのだ。
何が駄目かと言われてもかなりあやふやなところがあるが、まじはあの団結力とかそういうのが苦手だ。あと協力とか。
分かる人には分かるだろうが行動が遅いのは協力とかそういう面で非常に鬱陶しく面倒な話になる。手際が悪いと余計に。どういうことをしてくれと言われてもぱっぱと行動に移せないので作業がはかどらないし、てきぱきできる人から見たらかなり鬱陶しい存在と言える。
これはさっさとできる人から見た場合で…
で、当の、いわゆる「とろい」と呼ばれる人たちから見ると…正直つらい。
自分では一生懸命しているのだが、どうしても人と比べると見劣りする。比べなければいいという人もいるだろうが協力とか言っている以上人と並んで進まないといけないわけで。
それがつらすぎる。
できる人はそれだけ努力しているし、話し合いとかにも積極的に参加しているから内容を理解できているからかもしれない。だけど、話を聞いても理解するまでに時間はかかるし(耳で理解するのがかなり苦手なのでだらだらとして説明などは苦手中の苦手)手際よく仕事をするためには何十回も同じことをしないと憶えられない。
大学生になるともうこういういいわけは聞かないもので。相手も大人だし、そこら辺は理解してくれる人もいる。けど自分が嫌なのだ…
足を引っ張っている感じがするし、それで参加しないとそれはそれで罪悪感がある。
前にも書いたように自分だって悩んだわけで。実習中からずっと学祭のことは言われ続けてきたし…だけど実習が終わってずっと立ち直ることができず、参加しても疎外感だけで。
なんか一生懸命になっている人の中に入るのって結構大変なんだよな。
中心になっている人たちはどうして全員参加をさせたがるのだろうか?義務だから?それが当たり前だから?みんなでした方が作業が早くなるから?
大学に義務なんてないとか入学先の直後に言われたことはもう憶えていないだろうなぁ。
ついでにみんなでしたら進むとかそういう問題じゃないし。やる気が無く、段取りも分からないのがきたところで作業が進むか、と。
だったら最初から「じゃ俺参加しないから」と言っておいた方がよっぽど良心的だろうというのが自分の考え。卑怯臭いし、逃げているような感じがするけど。
登校拒否とかでもだけど、行きたいのに行けない人を行かせることの方がよっぽど難しいんだよなぁ。大人をそういう記にさせることができたらたぶん登校拒否の子どもを登校させることとかできそうな予感がする。
学祭に行きたくない人は行かない旨を伝えてとっとと退散するに限る。その方が準備する人たちもいいだろう。たまに顔を出すぐらいだったら徹底的に休むとか。
とか言って学祭後もそういう状態だったら嫌だよなぁ。正直凹むぞ、自分。今のところそういう雰囲気は無いので一安心といったところかな。敵を増やしているのは変わりない。
中心にいる人たちはどうして来たくないのかそれぐらい聞いて欲しい。納得のいく意見だったらそれで認めてやけばいいだろうし、納得いかない意見だったら話し合えばいいだけだろ。
ちなみに自分の参加しない理由。
「やる気でないから」
半分事実。うつ状態の時に聞くから…
去年やる気出したんだけど極度のプレッシャーで結局手が動かなくなってその時発せられた
『この役立たず』
が未だにぐりぐりと締め付ける。好きで役立たずになったんじゃねぇよ!かなり悔しくて握り拳作ろうにも力が入らない手を見つつ惨めな思いになったのは学祭での思い出だ。
ということで今回学祭不参加の理由説明をここでしてみたり。
ただ、最後に一つ言うとしたら、一生懸命になることはいいことだと思う。きっと記憶に残るだろうし、それで仲間意識も芽生えるだろう。けどそういうのが苦手な人もいることを忘れないで欲しい、わがままだけど。
参加している誰かが嫌いだから。
集団行動が嫌だから。
やる気がないから。
だるいから。
いろいろと理由があるだろうが、参加することがいいことだとは自分は言わない。絶対参加しろというんだったら一言言ってやろう。
そういう参加できる環境作ってみろ。
強制とかそういう方法はいつかどこかでひずみが生じるもんだ。だったらみんなが参加したいと思うようにすれば今まで以上に参加するんじゃないかなぁと。
仲良しグループでたまって必死にやっていても仲良しグループじゃない人は全然興味持たないし、一生懸命やっているとアピールしても他人が一生懸命してどうして自分もしないと?とか思う人だっている。飲み会費とか払うからあとは勝手にしてとかいうのもいるだろう、もしかしたら。
参加していない人の理由を少しでも考えたら参加率向上とかできないだろうかと思う毎日。
■教員免許、抜本見直しへ 文科相近く中教審に諮問
2004年10月17日 教育※情報元
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041017-00000005-kyodo-soci
教員免許とは教員になるためには必要とされるもの。
取得方法としては主に短大、または4年生大学で必要単位を取ることが挙げられる。何度も書いているように教育学部で無くてもちゃんと必要単位をそろえて、地方公共団体に卒業時申請することで手にすることができる免許。
現在は取得したあとは免許更新などはない。自動車免許とは根本的に違うところ。ちなみに医師免許も確か免許更新はあったはず…だと思う。無かったら危ないだろうし。
しかし改正後は更新が必要となり、免許を取るためにも適性検査を課すことになる。現在は教員採用試験という適性検査が課せられている。つまり改正後は二度適性を課せられる事になる。慎重と言えば慎重だが…鬱陶しいと言えば鬱陶しい。
考えてみれば適性検査をいつ行うかが気になる。大学教職課程でと言われているがそこで「適性がない」と判断された場合どうするのか。そこでアウトだ。
教育学部が現状維持のままでいた場合悲しいことに卒業ができない(卒業資格として教員免許の取得があるため)そして教員に向いていないと判断するのは一体誰なのか。
実際のところ、今の状態でもそういう適性検査があると言えばあるのではないだろうか。
そう、この前行った教育実習。
自分はそこで真っ正面から
『教師に向いていない』
ということを言われた。精神的にもろいとか神経が細すぎる、度胸がない、緊張しすぎなど。その他いろいろと。アドバイスのつもりだろうが、神経が細いと分かっているならどうしてそこまで言うのか、と。
話が逸れた。元に戻そう。
そこで評価授業などがあり、実習校の先生方が判断を下すところがある。それで負荷をもらえば当然もう一度教育実習を受ける。教育実習は教員免許の取得には絶対必要な単位であるわけだから教員免許を与えない事もできる。
この現状でも受かる人がいて、その人は教師としての適性が無いにもかかわらず免許を与えた事になる。
職務怠慢だな、そう考えたら。なるべきでは無い人に免許を与えた実習校の教師と大学。そして教員採用試験を通過させた教育委員会。それを放置してきた国。
そして本文中にある「専門職大学院制度を教員養成に活用する」
今の教員に求められているのは幅広い知識と言ったのはどこだろうか。だから社会性を身につけるために教師が社会研修をしたりしていたわけで。大学院に行くということはまた社会適性を得る機会が無くなる事にならないだろうか。
そして生きる力が何より重要だとか。そして…教育実習での言葉。
『教員は現場で学ぶことが何よりも多い』
さて、矛盾しているところは無いか。
さて、ぐだぐだと書きすぎたので要点をまとめてみることにある。
○現在では単位をそろえれば教員免許は取得可能。
○その後教員採用試験を受け、通過すれば教壇に立てる。
○教育実習というある種の適性検査がある。
○改正後は大学生の間に適性検査を入れる。
○大学院で専門性の高い教師を育成する。
現状の教育制度に問題があることは自分たちでさえ分かることだ。だが、それは自分たちの育ってきた教育が今の時代に合わないだけの事で。今の時代に教育を合わせる事が必要…と言っているのだろう。
だが、急ごしらえの方針で合わせることができるのか。上の人たちはどこまで現場の事を理解しているのだろうか。そこを考えないといけないはずだ。
教師を変えたら教育が大きく変わるのか?
飛んでもない話だ。そこまで教員は聖職者でもないし、ただの人だ。睡眠時間を削ってまで仕事をして、過労になり、精神を病みつつ辞めていく人がいる仕事でもある。
現状でそこまでひどい状態だ。
おそらくそういった人たちを減らす事も必要なのだろう。だから大学生の間に適性検査をするのも理由なのだろう。
だとしたら教員に必要な資質とはいったい何だ?
人になじられても傷つかない強固な精神か?専門的な知識か?逸れても生徒に好かれるような明るい性格か?だとしたら教員になれるのはそういう性格の人たちだけか。そういう規準をどうやって作るのだろう…作ったとしてもそれの信頼性はどうやって測るのか。
今後どういう方針に行くか見守るしかないだろう。その前に教師になる適性がない自分が免許を取り卒業してしまうのだが…
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041017-00000005-kyodo-soci
教員免許とは教員になるためには必要とされるもの。
取得方法としては主に短大、または4年生大学で必要単位を取ることが挙げられる。何度も書いているように教育学部で無くてもちゃんと必要単位をそろえて、地方公共団体に卒業時申請することで手にすることができる免許。
現在は取得したあとは免許更新などはない。自動車免許とは根本的に違うところ。ちなみに医師免許も確か免許更新はあったはず…だと思う。無かったら危ないだろうし。
しかし改正後は更新が必要となり、免許を取るためにも適性検査を課すことになる。現在は教員採用試験という適性検査が課せられている。つまり改正後は二度適性を課せられる事になる。慎重と言えば慎重だが…鬱陶しいと言えば鬱陶しい。
考えてみれば適性検査をいつ行うかが気になる。大学教職課程でと言われているがそこで「適性がない」と判断された場合どうするのか。そこでアウトだ。
教育学部が現状維持のままでいた場合悲しいことに卒業ができない(卒業資格として教員免許の取得があるため)そして教員に向いていないと判断するのは一体誰なのか。
実際のところ、今の状態でもそういう適性検査があると言えばあるのではないだろうか。
そう、この前行った教育実習。
自分はそこで真っ正面から
『教師に向いていない』
ということを言われた。精神的にもろいとか神経が細すぎる、度胸がない、緊張しすぎなど。その他いろいろと。アドバイスのつもりだろうが、神経が細いと分かっているならどうしてそこまで言うのか、と。
話が逸れた。元に戻そう。
そこで評価授業などがあり、実習校の先生方が判断を下すところがある。それで負荷をもらえば当然もう一度教育実習を受ける。教育実習は教員免許の取得には絶対必要な単位であるわけだから教員免許を与えない事もできる。
この現状でも受かる人がいて、その人は教師としての適性が無いにもかかわらず免許を与えた事になる。
職務怠慢だな、そう考えたら。なるべきでは無い人に免許を与えた実習校の教師と大学。そして教員採用試験を通過させた教育委員会。それを放置してきた国。
そして本文中にある「専門職大学院制度を教員養成に活用する」
今の教員に求められているのは幅広い知識と言ったのはどこだろうか。だから社会性を身につけるために教師が社会研修をしたりしていたわけで。大学院に行くということはまた社会適性を得る機会が無くなる事にならないだろうか。
そして生きる力が何より重要だとか。そして…教育実習での言葉。
『教員は現場で学ぶことが何よりも多い』
さて、矛盾しているところは無いか。
さて、ぐだぐだと書きすぎたので要点をまとめてみることにある。
○現在では単位をそろえれば教員免許は取得可能。
○その後教員採用試験を受け、通過すれば教壇に立てる。
○教育実習というある種の適性検査がある。
○改正後は大学生の間に適性検査を入れる。
○大学院で専門性の高い教師を育成する。
現状の教育制度に問題があることは自分たちでさえ分かることだ。だが、それは自分たちの育ってきた教育が今の時代に合わないだけの事で。今の時代に教育を合わせる事が必要…と言っているのだろう。
だが、急ごしらえの方針で合わせることができるのか。上の人たちはどこまで現場の事を理解しているのだろうか。そこを考えないといけないはずだ。
教師を変えたら教育が大きく変わるのか?
飛んでもない話だ。そこまで教員は聖職者でもないし、ただの人だ。睡眠時間を削ってまで仕事をして、過労になり、精神を病みつつ辞めていく人がいる仕事でもある。
現状でそこまでひどい状態だ。
おそらくそういった人たちを減らす事も必要なのだろう。だから大学生の間に適性検査をするのも理由なのだろう。
だとしたら教員に必要な資質とはいったい何だ?
人になじられても傷つかない強固な精神か?専門的な知識か?逸れても生徒に好かれるような明るい性格か?だとしたら教員になれるのはそういう性格の人たちだけか。そういう規準をどうやって作るのだろう…作ったとしてもそれの信頼性はどうやって測るのか。
今後どういう方針に行くか見守るしかないだろう。その前に教師になる適性がない自分が免許を取り卒業してしまうのだが…
ちょっとずつ今日中に書いていくこととして…
■1041
教育課程やら教育実地研究の手引きなどを見てみるが…「守秘義務」の言葉がどこにも出てこない。ぱっと見ただけなのでまだ何とも言えないが…
ネットで調べていると「公務員の守秘義務」というのは良く出てきている(民間の守秘義務と違って罰則規定有り)調べたところ地方公務員法第34条がそれに該当するらしい。
そんな感じらしいがそもそも実習生は「公務員」として認められるのか。その前に労働者としては…なかなか微妙な立場らしいな。
それも問題だが「職務上知り得た秘密」ってどこまで言うんだろう?かなりあやふやだし。
あとで使用できそうなのでここにリンクを張っておく
○地方公務員法
ttp://www.houko.com/00/01/S25/261.HTM
○学校教育法
ttp://www.houko.com/00/01/S22/026.HTM
○教育公務員特例法
ttp://www.houko.com/00/01/S24/001.HTM
まずは教育実習生の身分はどうなっているのか調べないと先に進めないようだ。
■1717
いろいろと検索してみたが今のところ「教育実習生の身分」について明記されているところが見あたらない。
「教育実習生は大学生では無く社会人として振る舞わなければならない」
「学生の特権を生かしてできる限り担当の先生に聞くようにする」
とかなんかあやふやなところが多い。そもそもどっちなんだ、と。
ちなみに教育実習に行くのは当然と思われているがこれは法律で決まっているからで(これが必須単位として入っている)行かないと卒業すらできないわけで。
必須と決まっているのに結構あやふや。学校ごとに適切な指示をというのだろうか?ずいぶんと手を抜いている。
それで守秘義務だが…学校教育法、教育公務員特例法、教員免許法を見たところでは公務員の守秘義務が書かれているだけで他は触れていない。
結構ずさんなことが判明。
これは困った。
これでは日記にどこまで書いてOKなのかさっぱり分からない。つまり実習記録も同じ事でどこまで書いて良いのだろうか?プライバシーとの関連もとか言われていたけど結局元々がアバウトなのでどうしようもない。
いろいろと悩んでいると手引き書に教育実習生の立場について書いてあるところを発見。抜粋することにする。
つまり実習生の立場はそこまで明記されていないということか。つまり…実習生は何?もしかして聞いたとたんに
「実習生という立場」
など言われないだろうか。あと、同じ手引き書より
ということである意味決定的な事が書いてあるな。実習生は教育現場では教師として認められていない事になり、以上の事から
○児童・生徒の前では教師
○学校内では部外者
という立場が段々明確化してきた。手引き書なので絶対的な拘束力は無いだろうが少なくとも実習生のための冊子に書いてあることだ。ただ、悲しいことに次のページに
「勤務上の心構え」
だんだん悲しくなってきた。
なんか「教育実習生=お客さん」と言われる意味が段々分かってきた。実際に行けばより鮮明になるのだろうな。
■1041
教育課程やら教育実地研究の手引きなどを見てみるが…「守秘義務」の言葉がどこにも出てこない。ぱっと見ただけなのでまだ何とも言えないが…
ネットで調べていると「公務員の守秘義務」というのは良く出てきている(民間の守秘義務と違って罰則規定有り)調べたところ地方公務員法第34条がそれに該当するらしい。
(秘密を守る義務)
第34条 職員は、職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も、また、同様とする。
2 法令による証人、鑑定人等となり、職務上の秘密に属する事項を発表する場合においては、任命権者(退職者については、その退職した職又はこれに相当する職に係る任命権者)の許可を受けなければならない。
3 前項の許可は、法律に特別の定がある場合を除く外、拒むことができない。
そんな感じらしいがそもそも実習生は「公務員」として認められるのか。その前に労働者としては…なかなか微妙な立場らしいな。
それも問題だが「職務上知り得た秘密」ってどこまで言うんだろう?かなりあやふやだし。
あとで使用できそうなのでここにリンクを張っておく
○地方公務員法
ttp://www.houko.com/00/01/S25/261.HTM
○学校教育法
ttp://www.houko.com/00/01/S22/026.HTM
○教育公務員特例法
ttp://www.houko.com/00/01/S24/001.HTM
まずは教育実習生の身分はどうなっているのか調べないと先に進めないようだ。
■1717
いろいろと検索してみたが今のところ「教育実習生の身分」について明記されているところが見あたらない。
「教育実習生は大学生では無く社会人として振る舞わなければならない」
「学生の特権を生かしてできる限り担当の先生に聞くようにする」
とかなんかあやふやなところが多い。そもそもどっちなんだ、と。
ちなみに教育実習に行くのは当然と思われているがこれは法律で決まっているからで(これが必須単位として入っている)行かないと卒業すらできないわけで。
必須と決まっているのに結構あやふや。学校ごとに適切な指示をというのだろうか?ずいぶんと手を抜いている。
それで守秘義務だが…学校教育法、教育公務員特例法、教員免許法を見たところでは公務員の守秘義務が書かれているだけで他は触れていない。
結構ずさんなことが判明。
これは困った。
これでは日記にどこまで書いてOKなのかさっぱり分からない。つまり実習記録も同じ事でどこまで書いて良いのだろうか?プライバシーとの関連もとか言われていたけど結局元々がアバウトなのでどうしようもない。
いろいろと悩んでいると手引き書に教育実習生の立場について書いてあるところを発見。抜粋することにする。
諸君たち、「参加観察」の実習生を児童・生徒達の側からみるとどうでしょうか。教育実習生を英語では、student teacherといいますが、確かに、teacher・教師でありますが、その前にstudent・学生という言葉がついているように。その立場は極めて微妙です。しかし、児童・生徒達の前に立って指導する以上は、教師であるという自覚をもち、きちんとして態度を取ることが要求されます。
つまり実習生の立場はそこまで明記されていないということか。つまり…実習生は何?もしかして聞いたとたんに
「実習生という立場」
など言われないだろうか。あと、同じ手引き書より
実習校の運営に対して基本的権限を持っていず、責任を負えない実習生が、それ(実習校の運営形態をさしている)に直接的な影響を及ぼすような行動はしてはなりません。田しっしゅうせいはまず、謙虚に「現実の教育」から学ばなければなりません。
ということである意味決定的な事が書いてあるな。実習生は教育現場では教師として認められていない事になり、以上の事から
○児童・生徒の前では教師
○学校内では部外者
という立場が段々明確化してきた。手引き書なので絶対的な拘束力は無いだろうが少なくとも実習生のための冊子に書いてあることだ。ただ、悲しいことに次のページに
「勤務上の心構え」
だんだん悲しくなってきた。
なんか「教育実習生=お客さん」と言われる意味が段々分かってきた。実際に行けばより鮮明になるのだろうな。
さて、今日3つ目の日記になる。書きたいことが山の様にあるので書くことにするが…そんな事よりもレポートをどうにかしないといけないわけだが。
やはり佐世保の事件関係。それは興味がある。仮にも教育学部なのだから。仮にもというのは…まぁ教育学部の学生らしくないということから。友人たちと比べたらそりゃ積極性に欠けるからな。
毎日の様に放送しているのだが、いつも耳につくのは
『普通の小学生が』
というコメント。
ところで普通って何? どんなのが普通?
新聞などのアンケートによると今の小学生の半数以上が「殺したい」と思ったことがあるという。それが普通と認められるのか。
人を殺して「普通」でいられるとは到底思えない。これは教育史の講義で教授が言っていた言葉だ。殺せる精神状態はどんなものなのか想像したこともない。自分が死にそうになったことだったら何度もある。むしろはっきりと「死にたい」と。
何度も書いているが以前自分は
『やっぱり普通でいたい』
と言っていた人を知っている。身近な人だった…
その時は「自分が異常なのか?」で終わったが考えたら普通でありたいと思う方がきっと異常だ。
普通でいたい。
みんなと一緒でいい。
良い子でいたい。
そんな考えの子どもの方がよっぽど怖いのにそろそろ気づいてあげてもいいんじゃないだろうか。そんな押しつけられたような状態でいいのか?
実家のご近所の子は中学生になったが無邪気だ。言いたいことはずばずば言うし、未だにいたずらが耐えない。いつも怒ってばかりだがかわいいものだ。
実習で担当したのは同じ年の子どもだった。学校だったからだろうし、自分が先生という立場だったからおとなしかったのかもしれない。
ただ、2日目になると慣れてきたようだが。自分の精神年齢が幼いことも功を奏したようだ。自分の前ではいろいろとしゃべってくれて、雑談をしながら作業をした。
変だと思ったのはその後だった。
先生が来たら黙った。担任なのに…何も話さなかった。
どうしてだ?
自分が中学生の時もこうだったのか?と思ったりしたが。担任が嫌いだったことぐらいしか覚えていない。確かに先生の前は怖いからじっとしていたけど、ちゃんと作業もしていたし問題ないと思っていた。
先生がいなくなってから聞くと
『黙って作業しないと怒るからね』
とか。そうか…納得できた。
たった2日間だけどここまで話してくれた彼には感謝だ。自分には欠けている事がある。
「中学校の記憶」
未だに部分的にしか思い出せない。だんだん霧のように消えていく。もう図書館にいた一部の時間と、川内に試合に行ったことなど部分的。学校にいた記憶もなくなっている。USが家まで来てくれたことは今でもはっきり覚えている。それは学校にいなかったからだろう。
寂しいことだ。
だから中学生の心境など分からなかったから聞けてよかった。
良い子でいたい。自分も高校の時まで結構思っていた。それが親孝行だとも。ただ、それだからか、自分の中で反抗期というものを覚えていない。
中学時代にあったのだろうか…そんな事を考えたりするが講義などで
『反抗期がない子どもほど危険』
と聞くと親にも確認がとれない。臆病だ、自分。
普通でいたいと思ってもそれは自分から見たら異常だ。自分が選んだ道は普通だと思っていた。けど一つ何かが抜けると違うことが見えるものだと実感した。
パズルがこう、崩れる感じで。がらがらと。
たぶんアナウンサーが言っている「普通の子ども」というのは普通じゃないんじゃないかな。
そもそも「普通」って何だよ。
みんな違うと言っておきつつ普通でいたい。矛盾だ。知識が平等だったらそれは「普通」か? 一般的であればそれは「普通」か?
最近普通でありたいと思わなくなった。
「人と違っていたい。どこか一カ所でも、自分が自分であるという事を意識したい」
それだけのこと。自分が自分である以上、どこか他人と違うところがあり、同じところがあるはずだ。同じである部分より違う部分を強調したいな、と。
今まで普通でいたいと思っていたから今更だけどいいじゃないか。
普通でいたいと思うんだったら、変わった人と呼ばれるようになったらいいさ。
雨に濡れたくないと思うんだったらまず濡れてみろ、だ。濡れてどんな感じか分かるからこそ濡れたくないと思うんだから。
これは自分にも言えることだ。
積極的になれ、自分。少しだけでも足を踏み出せ。それで変わることだってあるんだから。
やはり佐世保の事件関係。それは興味がある。仮にも教育学部なのだから。仮にもというのは…まぁ教育学部の学生らしくないということから。友人たちと比べたらそりゃ積極性に欠けるからな。
毎日の様に放送しているのだが、いつも耳につくのは
『普通の小学生が』
というコメント。
ところで普通って何? どんなのが普通?
新聞などのアンケートによると今の小学生の半数以上が「殺したい」と思ったことがあるという。それが普通と認められるのか。
人を殺して「普通」でいられるとは到底思えない。これは教育史の講義で教授が言っていた言葉だ。殺せる精神状態はどんなものなのか想像したこともない。自分が死にそうになったことだったら何度もある。むしろはっきりと「死にたい」と。
何度も書いているが以前自分は
『やっぱり普通でいたい』
と言っていた人を知っている。身近な人だった…
その時は「自分が異常なのか?」で終わったが考えたら普通でありたいと思う方がきっと異常だ。
普通でいたい。
みんなと一緒でいい。
良い子でいたい。
そんな考えの子どもの方がよっぽど怖いのにそろそろ気づいてあげてもいいんじゃないだろうか。そんな押しつけられたような状態でいいのか?
実家のご近所の子は中学生になったが無邪気だ。言いたいことはずばずば言うし、未だにいたずらが耐えない。いつも怒ってばかりだがかわいいものだ。
実習で担当したのは同じ年の子どもだった。学校だったからだろうし、自分が先生という立場だったからおとなしかったのかもしれない。
ただ、2日目になると慣れてきたようだが。自分の精神年齢が幼いことも功を奏したようだ。自分の前ではいろいろとしゃべってくれて、雑談をしながら作業をした。
変だと思ったのはその後だった。
先生が来たら黙った。担任なのに…何も話さなかった。
どうしてだ?
自分が中学生の時もこうだったのか?と思ったりしたが。担任が嫌いだったことぐらいしか覚えていない。確かに先生の前は怖いからじっとしていたけど、ちゃんと作業もしていたし問題ないと思っていた。
先生がいなくなってから聞くと
『黙って作業しないと怒るからね』
とか。そうか…納得できた。
たった2日間だけどここまで話してくれた彼には感謝だ。自分には欠けている事がある。
「中学校の記憶」
未だに部分的にしか思い出せない。だんだん霧のように消えていく。もう図書館にいた一部の時間と、川内に試合に行ったことなど部分的。学校にいた記憶もなくなっている。USが家まで来てくれたことは今でもはっきり覚えている。それは学校にいなかったからだろう。
寂しいことだ。
だから中学生の心境など分からなかったから聞けてよかった。
良い子でいたい。自分も高校の時まで結構思っていた。それが親孝行だとも。ただ、それだからか、自分の中で反抗期というものを覚えていない。
中学時代にあったのだろうか…そんな事を考えたりするが講義などで
『反抗期がない子どもほど危険』
と聞くと親にも確認がとれない。臆病だ、自分。
普通でいたいと思ってもそれは自分から見たら異常だ。自分が選んだ道は普通だと思っていた。けど一つ何かが抜けると違うことが見えるものだと実感した。
パズルがこう、崩れる感じで。がらがらと。
たぶんアナウンサーが言っている「普通の子ども」というのは普通じゃないんじゃないかな。
そもそも「普通」って何だよ。
みんな違うと言っておきつつ普通でいたい。矛盾だ。知識が平等だったらそれは「普通」か? 一般的であればそれは「普通」か?
最近普通でありたいと思わなくなった。
「人と違っていたい。どこか一カ所でも、自分が自分であるという事を意識したい」
それだけのこと。自分が自分である以上、どこか他人と違うところがあり、同じところがあるはずだ。同じである部分より違う部分を強調したいな、と。
今まで普通でいたいと思っていたから今更だけどいいじゃないか。
普通でいたいと思うんだったら、変わった人と呼ばれるようになったらいいさ。
雨に濡れたくないと思うんだったらまず濡れてみろ、だ。濡れてどんな感じか分かるからこそ濡れたくないと思うんだから。
これは自分にも言えることだ。
積極的になれ、自分。少しだけでも足を踏み出せ。それで変わることだってあるんだから。
図書館でそういう感じの本を見かけて改めて考えてみた。そういえば以前法律化されたんだったななんてかすかに覚えているぐらい。
調べるまでは「さざれ石って何?」「いわおって誰?(岩男と勘違い)」「苔って蒸すのか?」などはちゃめちゃな意味のとらえ方をしていた気が…間違いすぎ。
けど意味を教えてもらった事はないよな、考えたら。今の学校では歌う時に意味をちゃんと教えているのかな。教えていなかったら今の教育の方針とはあっていないなぁ。意味を理解させて教える、だろ?それこそ暗記だよな。
考えてみたら自分達には大いに関係があることじゃないか。今まで興味も持たなかった自分が情けない。
どうしてかというと教育学部だから。まぁ簡単に言えば学校で国歌斉唱と国旗掲揚が実質義務化されているから。つまり教員になったら絶対に避けては通れない道。
で、自分はというと…実は高校2年以来国歌を歌ったことがない。どうしてかというと高校1年の時に見た古語辞典が原因。
それまで自分は大して興味も無くそれはそのまま歌っていたわけだが。けど意味を調べてからどうも納得がいかなくなった。どうしてこんな歌を歌う必要性があるのか疑問に思ったから。
卒業式の時も歌っていない、当然の事ながら。
なんで歌わないといけないのかちょっと疑問に思い当時の担任に聞いた。その解答が
「法律で決まったからだね」
その時はその時で納得したが…調べてみたら意外な事実が発覚。
国旗及び国歌に関する法律では国旗は日章旗、国歌は君が代を決めているだけで実は行事で歌う事を決めていなかった。けれども行事などでは歌う事が半分義務付けになっているし。どういうことだ、これ。
まぁどうしてこんな事をしているか分かっているのだが。結局「愛国心」のためだろう。
なんか…教育に愛国心って今更という感じがする。もしかしたらそのうち教室に天皇の写真とか国旗が飾られるんだろうな、冗談で言ってられなくなりそうだけどさ。
しかし今の子供は十分愛国心があると思うが。大体未成年なのに酒を飲むしたばこを吸う。そして消費税を小学生も納めているし。
あ〜なんて国の財政を思いやっている子供たちだ。愛国心は十分じゃないか?自分達の身を削ってまで国に奉仕しているんだから。
その税金を無駄に使っている国会議員万歳だけどな。
まぁ話はずれたが愛国心を持たせるには国歌国旗を身近にさせることが重要なのだろう。よく言えば国民意識を高める、悪く言えば国による洗脳だ。
それは…第二次世界大戦の時にもあったことだろ。日本は神の国といい、天皇の為にと特攻させたりしたじゃないか。そういう時代背景もあるんだから。
さて、自分は多分教師になれないと思う。教師は国歌を歌わないと辞めさせられるんだからな。
ただ歌えばいいとか思う人もいるかもしれないけど…この歌と国旗を使って何人の人が戦死したか。そういうことを考えるとどうも気軽に歌えない。
しかし国歌に対してここまで嫌悪感を示す人がいる国はそうもないだろう。アメリカ国歌はどうしてあんなにまで国民から支持されるか。それは多民族国家だからだろう。国歌などで国民意識を高めるから。そして自分の国に誇りを持っているんだろうな。
日本人という意識を持つ事が必要、か。
自分は日本国籍だけどそんなに日本とかにこだわる必要性はないと思う。そんな国旗国歌で縛りつけるよう日本がもうちょっと魅力的な国になったら勝手にでも日本人ということを誇りに思うはず。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで
我が天皇陛下の治めになる
この御代(みよ)は、千年も万年も
いや、いつまでもいつまでも
(細かい石が大きな岩に成長し、さらに苔がはえるまで)
続いてお栄えなるように
調べるまでは「さざれ石って何?」「いわおって誰?(岩男と勘違い)」「苔って蒸すのか?」などはちゃめちゃな意味のとらえ方をしていた気が…間違いすぎ。
けど意味を教えてもらった事はないよな、考えたら。今の学校では歌う時に意味をちゃんと教えているのかな。教えていなかったら今の教育の方針とはあっていないなぁ。意味を理解させて教える、だろ?それこそ暗記だよな。
考えてみたら自分達には大いに関係があることじゃないか。今まで興味も持たなかった自分が情けない。
どうしてかというと教育学部だから。まぁ簡単に言えば学校で国歌斉唱と国旗掲揚が実質義務化されているから。つまり教員になったら絶対に避けては通れない道。
で、自分はというと…実は高校2年以来国歌を歌ったことがない。どうしてかというと高校1年の時に見た古語辞典が原因。
それまで自分は大して興味も無くそれはそのまま歌っていたわけだが。けど意味を調べてからどうも納得がいかなくなった。どうしてこんな歌を歌う必要性があるのか疑問に思ったから。
卒業式の時も歌っていない、当然の事ながら。
なんで歌わないといけないのかちょっと疑問に思い当時の担任に聞いた。その解答が
「法律で決まったからだね」
その時はその時で納得したが…調べてみたら意外な事実が発覚。
国旗及び国歌に関する法律では国旗は日章旗、国歌は君が代を決めているだけで実は行事で歌う事を決めていなかった。けれども行事などでは歌う事が半分義務付けになっているし。どういうことだ、これ。
まぁどうしてこんな事をしているか分かっているのだが。結局「愛国心」のためだろう。
なんか…教育に愛国心って今更という感じがする。もしかしたらそのうち教室に天皇の写真とか国旗が飾られるんだろうな、冗談で言ってられなくなりそうだけどさ。
しかし今の子供は十分愛国心があると思うが。大体未成年なのに酒を飲むしたばこを吸う。そして消費税を小学生も納めているし。
あ〜なんて国の財政を思いやっている子供たちだ。愛国心は十分じゃないか?自分達の身を削ってまで国に奉仕しているんだから。
その税金を無駄に使っている国会議員万歳だけどな。
まぁ話はずれたが愛国心を持たせるには国歌国旗を身近にさせることが重要なのだろう。よく言えば国民意識を高める、悪く言えば国による洗脳だ。
それは…第二次世界大戦の時にもあったことだろ。日本は神の国といい、天皇の為にと特攻させたりしたじゃないか。そういう時代背景もあるんだから。
さて、自分は多分教師になれないと思う。教師は国歌を歌わないと辞めさせられるんだからな。
ただ歌えばいいとか思う人もいるかもしれないけど…この歌と国旗を使って何人の人が戦死したか。そういうことを考えるとどうも気軽に歌えない。
しかし国歌に対してここまで嫌悪感を示す人がいる国はそうもないだろう。アメリカ国歌はどうしてあんなにまで国民から支持されるか。それは多民族国家だからだろう。国歌などで国民意識を高めるから。そして自分の国に誇りを持っているんだろうな。
日本人という意識を持つ事が必要、か。
自分は日本国籍だけどそんなに日本とかにこだわる必要性はないと思う。そんな国旗国歌で縛りつけるよう日本がもうちょっと魅力的な国になったら勝手にでも日本人ということを誇りに思うはず。
教育についていろいろと語ることが恒例になっている気がするが…気のせいではないな。
今回は自分が一番嫌いなゆとり教育について。
「土曜が休みになるんだからいいじゃないか」
などと思っていた同級生が多い中自分は反対派だった。まぁ考え方が違っていただけだろうが。中学生の自分が思っていた理由としては
1.クラブがなくなる
2.土曜が暇になる
などということが中心だった。子供らしい考えだ。
そして今では…
1.ゆとりの意味が間違っている
2.逆に詰め込みを強要している
3.教師の労働時間が増えている
という考えにたどり着いている。教育学部らしい考えになってきているようだ。
ゆとりとは何か、よく考えたらなんなんだろう、と。子供にゆとりを…と叫ぶ大人たち。ゆとりを勘違いしているだけではないかと自分は思う。
ゆとりは休みが増えることを意味しているとしたらそれは教師の労働時間の問題ではないのか。教師は労働時間が長かった。父さんは私立高校の教師だったが出て行くのは8時前。帰ってくるのは10時過ぎ。コレが毎日だった。公立はここまでないにしても12時間は働いていただろう。それが6日間。つまり週72時労働という話になる。それではいけないと考えて「ゆとり」を理由にしたとしたら教育は教師の労働現場としか考えていない事だろう。
つまり「ゆとり」は言い訳だ。
今の子供は時間的にはゆとりがあるかもしれないが精神的なゆとりはあるだろうか。あるとしたら今ある社会問題はなんだろう。
学校で内容を削減して、勉強したい人は塾で勉強してください。塾に行かない人は落ちこぼれてもいいですよと言っているようにしか思えない。
時間がない中必要最低限の勉強を教えることは詰め込み以外の何者でもない気がする。
プロセスを重視することは無理がある。だとしたら結局詰め込みの方がまだましなはずだ。
近所の子供は分数のわり算は逆数をかけることは理解している。しかし分数の足し算は理解できていない。つまりはただ暗記をしているだけ
こと。いくらプロセスを重視しようとも結局子供は
「覚えればいい」
と思っていれば仕方ない。
大人がゆとり、ゆとりと騒いでいても、制度が急激に変わったとしても子供はそんな急激に変わるものじゃない。
結局プロセスはあとでいいと思う。
英語を勉強するとき単語を覚える。そのたびに
「この単語の語源は…」
と考えていちいち覚えてるだろうか。
小学校で足し算を教える時に
「この足し算は自然数でx+1=x+と表すから…」
などと自然数の定義から教えるだろうか。
料理にしても
「牛のえさはこの試料を使って…」
と牛の育て方から教える料理教室があるだろうか。
パソコンをするにしても
「CPUはこういう構造で、メモリーがこの役割を…」
と考える人が初めてパソコンをするか。
そう考えるとおかしい話だ。初めてする事をプロセスだけを重視しているのはどうだろうか。
確かにプロセスは重要だと思う。ちゃんと理解するためにはそれは必要なことだ。だが、それは基本を覚えてからでもいいと思う。
分数のわり算は逆数をかける。これを覚えてあとでいろいろと覚えて自分で解決できたらそれは完全に理解できた事になる。後ででもいいじゃないか、と思う。
それは考えるゆとりがあることだと自分は思う。
結局今の方法はゆとりを求めて子供と教師を締め付けている。ゆとりはを求めるのは正しいと思うが…少なくとももう少しゆとりの意味について考えて欲しい物だ、と思う。
今回は自分が一番嫌いなゆとり教育について。
「土曜が休みになるんだからいいじゃないか」
などと思っていた同級生が多い中自分は反対派だった。まぁ考え方が違っていただけだろうが。中学生の自分が思っていた理由としては
1.クラブがなくなる
2.土曜が暇になる
などということが中心だった。子供らしい考えだ。
そして今では…
1.ゆとりの意味が間違っている
2.逆に詰め込みを強要している
3.教師の労働時間が増えている
という考えにたどり着いている。教育学部らしい考えになってきているようだ。
ゆとりとは何か、よく考えたらなんなんだろう、と。子供にゆとりを…と叫ぶ大人たち。ゆとりを勘違いしているだけではないかと自分は思う。
ゆとりは休みが増えることを意味しているとしたらそれは教師の労働時間の問題ではないのか。教師は労働時間が長かった。父さんは私立高校の教師だったが出て行くのは8時前。帰ってくるのは10時過ぎ。コレが毎日だった。公立はここまでないにしても12時間は働いていただろう。それが6日間。つまり週72時労働という話になる。それではいけないと考えて「ゆとり」を理由にしたとしたら教育は教師の労働現場としか考えていない事だろう。
つまり「ゆとり」は言い訳だ。
今の子供は時間的にはゆとりがあるかもしれないが精神的なゆとりはあるだろうか。あるとしたら今ある社会問題はなんだろう。
学校で内容を削減して、勉強したい人は塾で勉強してください。塾に行かない人は落ちこぼれてもいいですよと言っているようにしか思えない。
時間がない中必要最低限の勉強を教えることは詰め込み以外の何者でもない気がする。
プロセスを重視することは無理がある。だとしたら結局詰め込みの方がまだましなはずだ。
近所の子供は分数のわり算は逆数をかけることは理解している。しかし分数の足し算は理解できていない。つまりはただ暗記をしているだけ
こと。いくらプロセスを重視しようとも結局子供は
「覚えればいい」
と思っていれば仕方ない。
大人がゆとり、ゆとりと騒いでいても、制度が急激に変わったとしても子供はそんな急激に変わるものじゃない。
結局プロセスはあとでいいと思う。
英語を勉強するとき単語を覚える。そのたびに
「この単語の語源は…」
と考えていちいち覚えてるだろうか。
小学校で足し算を教える時に
「この足し算は自然数でx+1=x+と表すから…」
などと自然数の定義から教えるだろうか。
料理にしても
「牛のえさはこの試料を使って…」
と牛の育て方から教える料理教室があるだろうか。
パソコンをするにしても
「CPUはこういう構造で、メモリーがこの役割を…」
と考える人が初めてパソコンをするか。
そう考えるとおかしい話だ。初めてする事をプロセスだけを重視しているのはどうだろうか。
確かにプロセスは重要だと思う。ちゃんと理解するためにはそれは必要なことだ。だが、それは基本を覚えてからでもいいと思う。
分数のわり算は逆数をかける。これを覚えてあとでいろいろと覚えて自分で解決できたらそれは完全に理解できた事になる。後ででもいいじゃないか、と思う。
それは考えるゆとりがあることだと自分は思う。
結局今の方法はゆとりを求めて子供と教師を締め付けている。ゆとりはを求めるのは正しいと思うが…少なくとももう少しゆとりの意味について考えて欲しい物だ、と思う。
以前から教育学部について話したいことがあると思っていたので。試験が終わって一段落して趣味ばかりというのもなんだと感じて。
この日記を以前から読んでいることにとっては自分が教育学部の人間というのは知られていることで。なぜ教育学部に来たか、それを最初に書くことにする。
教師になろう、と思ったのは中学2年の時。中学に入ったばかりの自分は理科ができずに最初の試験でも結構悪い点を取っていた。
そんな自分が変わったのは中学の理科の先生の影響で。小学校とは全然違う、そう感じたものだった。顧問の先生で理科の協会員だったことで毎日のように理科室に行ってわからないことを聞いて。今思うと絶対にうっとうしかっただろうな。それでも教えてもらって…
実験する度にいろいろとわかるのが楽しくて仕方なかった。
高校になって将来を考える時にそんな先生になりたいな、それだけの思いで教育学部を目指した。結構こういう人は多いようで。
あと父さんの影響だろうか…教師をしていて同窓会とかに呼ばれて困ったようにしながら楽しそうな父さんがいて、結婚の報告が来るたびに高校の時は…などと口にしていた。それがすごく印象に残っていた。
そういうわけで教育学部に入ったのだが…まぁ現実はそう簡単なものではなく…理想と現実の間に深い何かがあったのは事実。
実習に行ってそれをより実感して教師になることを諦めた。それは後で書くことにしよう。
さて、そもそも教育学部とは何か。
簡単に言えば教員を育成するところだろう。けれども実は教員免許は教育学部で無くとも取れる。理学部、法文学部でも必要単位を満たすことで免許を取ることもできる。
今思うとこっちの方が理科を十分堪能できたのでは、と思う。
では教育学部に行く利点は何か。
まず教育について専門的に学べること。他学部からの場合は二足のわらじを履いて…と結構忙しい。あと教育学部であれば複数免許の取得も簡単。ついでに留年は無い(実習に必要単位があれば実習に行け、卒業に必要な単位があれば卒業できるという感じ)
友人たちには技術と理科、数学と理科、数学と国語といった変わり種から理科と家庭科という訳がわからない人たちがいる。
自分の好きな教科ができることは楽しいだろう。
そして問題点。挙げたらきりがない。自分で体験済みのことばかりなので…結構現実味あり。
まず理科よりも学部共通科目の方が確実に多い。心理学やら教育学といったものがほとんど。実際自分の場合専門の取得数が少ない方だが共通科目の方が倍近く多い。
そしてわかりにくい。
留年という概念がないと言ったのはじっしゅうや卒業までに必須単位をそろえたらいいということから。つまりどれを取るかは自分次第。
従って失敗したら実習に行けない場合がある。同級生数名は現在の時点で今年行けないことが確定している。そんなこともある。
ついでに言えば実習が多い。
参加観察実習(教育実習生を見るというもの 2年夏)や介護等体験実習(老人ホームなどに実習に行く 2年夏)そして教育実習(そのまんま 3年夏)がある。夏にあるということはすなわち夏休みが削られる。
あとこれは個人的なことだが…専修ごとの絆を重視しすぎる傾向がある。専修ごとの集まりはしょっちゅう。飲みも専門ごとに、とかなり狭い枠で行動していることがある。
サークルなどに入らないと他の専修と関わりがない場合が多い。
自分が教育学部で感じたことはこんなところだろうか。
しかし去年の夏ぐらいだっただろうか…参加観察実習で実習校に行った時に教師になることをやめよう、と思った。
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20030910.html
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20030911.html
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20030913.html
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20031002.html
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20031003.html
以上が5日分の記録。詳細事項が無いのはそういう決まりだから。実習校については書けないし、生徒のことについてもだめといろいろと規制がある。それがあるけど…できるだけ書こうと思う。
まず思ったのが授業を受けていた時と授業を教える方に立つと言うことは全く別だということ。逆ではなく違う、別物。
そしてただ教えるだけではなくどう教えるか、どこを中心に言いたいかなどいろいろと考える必要性がある。それが実習の難関のひとつの指導案。
現在ではパソコンでテンプレートを使ってすることが多いが(むしろ8割方それ)残り2割は…手書き。自分は少数派の手書きらしい。体験が大事と行っていたが実際に使えないことを体験したところでそれは無駄。
パソコンで書くにしても一太郎が主流だったりする。ワードは指導案を書いたりするのに向いていないため。そして教育現場ではDOSの頃から使っている人が多いので一太郎が主流。持っていると良いかもしれない。
ただし採用試験はワード。矛盾しているが仕方ない。
話は変わってしまったが、教えてもらう方が想像通り楽だ。どう教えるかコツがわからないとどうしようもない。
自分が教師になるのを諦めたのはこの実習がきっかけ。
まず先輩たちを見ていて自分の精神状態がついていけない。体力も付いていかない。
実習は基本的にずっと立ち。腰を痛めている自分には拷問の一言。昨年の実習でも実習後腰を痛めて寝ていたほどだ。
そして大学に戻り講義を受けていくうちに自分は教師に向いていないのでは、と思うようになった。自分から学ぶ精神が必要など…自分には到底ないと思われることが必要になる。
決定的だったのはやはり実習校に行った時のこととの矛盾。現実と理想が食い違い、現実の前に自分の夢とか理想がいかに無力かを突きつけられたとき、自分には無理だと悟った。
教育は今から変革を迎える。今まで以上にいろいろと変わっていく。それは自分たちが受けた教育が不完全で、かつだめだということから。
単刀直入に言えば自分たちは「実験で出た不良品」と言える。それは教育学部に来たら嫌と言うほど言われることだ。
教師は自分の受けた教育をまねする傾向があるという。いろいろと変わっていく中で自分たちの受けた教育は否定され、今から自分で考えた教育をしないといけなくなる。
教育学部にきて自分は単位にばかり目が行き、単位が取れたらいいと考えていた。今から教育学部に行く人は教師になるという夢を持った人が多いだろう。
それは大切にして欲しい。いざ大学生になればバイトにサークルにと忙しい。そして単位を取らないと実習に行けないと焦る。今の自分のように。
ただ本当に教師になりたいのだったら教師になったときこの知識がどうやったら役立てることができるか考えて講義を受けて欲しい。
教育学部は教師を育てることが目標だろうけど、それ以上に今生まれている子供たちをちゃんと育てるための人を育成する場所でもあるはずだろう。
自分は教育学部に入るとき夢があった。書くのは恥ずかしいが、理科が好きな子供を一人でも増やしたいという無謀な夢が。それは中学の理科の先生…自分の恩師が自分にしてくれたこと。
理科は難しいものじゃなくて楽しいものだ、それを教えたいと思っていた。
現実の前に無理だと気づいたのが遅すぎた。
今教育学部にいる人でほとんどは教師になるかもしれない。一部は教師にならない道を選ぶ。
教育学部に来たから教師になる、それだけが道じゃないと思う。
自分は教育学部に来てよかったと思う。いろいろと知ることができたし。大学で道を変えても良いんじゃないかな、と思う。
この日記を以前から読んでいることにとっては自分が教育学部の人間というのは知られていることで。なぜ教育学部に来たか、それを最初に書くことにする。
教師になろう、と思ったのは中学2年の時。中学に入ったばかりの自分は理科ができずに最初の試験でも結構悪い点を取っていた。
そんな自分が変わったのは中学の理科の先生の影響で。小学校とは全然違う、そう感じたものだった。顧問の先生で理科の協会員だったことで毎日のように理科室に行ってわからないことを聞いて。今思うと絶対にうっとうしかっただろうな。それでも教えてもらって…
実験する度にいろいろとわかるのが楽しくて仕方なかった。
高校になって将来を考える時にそんな先生になりたいな、それだけの思いで教育学部を目指した。結構こういう人は多いようで。
あと父さんの影響だろうか…教師をしていて同窓会とかに呼ばれて困ったようにしながら楽しそうな父さんがいて、結婚の報告が来るたびに高校の時は…などと口にしていた。それがすごく印象に残っていた。
そういうわけで教育学部に入ったのだが…まぁ現実はそう簡単なものではなく…理想と現実の間に深い何かがあったのは事実。
実習に行ってそれをより実感して教師になることを諦めた。それは後で書くことにしよう。
さて、そもそも教育学部とは何か。
簡単に言えば教員を育成するところだろう。けれども実は教員免許は教育学部で無くとも取れる。理学部、法文学部でも必要単位を満たすことで免許を取ることもできる。
今思うとこっちの方が理科を十分堪能できたのでは、と思う。
では教育学部に行く利点は何か。
まず教育について専門的に学べること。他学部からの場合は二足のわらじを履いて…と結構忙しい。あと教育学部であれば複数免許の取得も簡単。ついでに留年は無い(実習に必要単位があれば実習に行け、卒業に必要な単位があれば卒業できるという感じ)
友人たちには技術と理科、数学と理科、数学と国語といった変わり種から理科と家庭科という訳がわからない人たちがいる。
自分の好きな教科ができることは楽しいだろう。
そして問題点。挙げたらきりがない。自分で体験済みのことばかりなので…結構現実味あり。
まず理科よりも学部共通科目の方が確実に多い。心理学やら教育学といったものがほとんど。実際自分の場合専門の取得数が少ない方だが共通科目の方が倍近く多い。
そしてわかりにくい。
留年という概念がないと言ったのはじっしゅうや卒業までに必須単位をそろえたらいいということから。つまりどれを取るかは自分次第。
従って失敗したら実習に行けない場合がある。同級生数名は現在の時点で今年行けないことが確定している。そんなこともある。
ついでに言えば実習が多い。
参加観察実習(教育実習生を見るというもの 2年夏)や介護等体験実習(老人ホームなどに実習に行く 2年夏)そして教育実習(そのまんま 3年夏)がある。夏にあるということはすなわち夏休みが削られる。
あとこれは個人的なことだが…専修ごとの絆を重視しすぎる傾向がある。専修ごとの集まりはしょっちゅう。飲みも専門ごとに、とかなり狭い枠で行動していることがある。
サークルなどに入らないと他の専修と関わりがない場合が多い。
自分が教育学部で感じたことはこんなところだろうか。
しかし去年の夏ぐらいだっただろうか…参加観察実習で実習校に行った時に教師になることをやめよう、と思った。
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20030910.html
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20030911.html
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20030913.html
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20031002.html
http://diary.note.ne.jp/d/11549/20031003.html
以上が5日分の記録。詳細事項が無いのはそういう決まりだから。実習校については書けないし、生徒のことについてもだめといろいろと規制がある。それがあるけど…できるだけ書こうと思う。
まず思ったのが授業を受けていた時と授業を教える方に立つと言うことは全く別だということ。逆ではなく違う、別物。
そしてただ教えるだけではなくどう教えるか、どこを中心に言いたいかなどいろいろと考える必要性がある。それが実習の難関のひとつの指導案。
現在ではパソコンでテンプレートを使ってすることが多いが(むしろ8割方それ)残り2割は…手書き。自分は少数派の手書きらしい。体験が大事と行っていたが実際に使えないことを体験したところでそれは無駄。
パソコンで書くにしても一太郎が主流だったりする。ワードは指導案を書いたりするのに向いていないため。そして教育現場ではDOSの頃から使っている人が多いので一太郎が主流。持っていると良いかもしれない。
ただし採用試験はワード。矛盾しているが仕方ない。
話は変わってしまったが、教えてもらう方が想像通り楽だ。どう教えるかコツがわからないとどうしようもない。
自分が教師になるのを諦めたのはこの実習がきっかけ。
まず先輩たちを見ていて自分の精神状態がついていけない。体力も付いていかない。
実習は基本的にずっと立ち。腰を痛めている自分には拷問の一言。昨年の実習でも実習後腰を痛めて寝ていたほどだ。
そして大学に戻り講義を受けていくうちに自分は教師に向いていないのでは、と思うようになった。自分から学ぶ精神が必要など…自分には到底ないと思われることが必要になる。
決定的だったのはやはり実習校に行った時のこととの矛盾。現実と理想が食い違い、現実の前に自分の夢とか理想がいかに無力かを突きつけられたとき、自分には無理だと悟った。
教育は今から変革を迎える。今まで以上にいろいろと変わっていく。それは自分たちが受けた教育が不完全で、かつだめだということから。
単刀直入に言えば自分たちは「実験で出た不良品」と言える。それは教育学部に来たら嫌と言うほど言われることだ。
教師は自分の受けた教育をまねする傾向があるという。いろいろと変わっていく中で自分たちの受けた教育は否定され、今から自分で考えた教育をしないといけなくなる。
教育学部にきて自分は単位にばかり目が行き、単位が取れたらいいと考えていた。今から教育学部に行く人は教師になるという夢を持った人が多いだろう。
それは大切にして欲しい。いざ大学生になればバイトにサークルにと忙しい。そして単位を取らないと実習に行けないと焦る。今の自分のように。
ただ本当に教師になりたいのだったら教師になったときこの知識がどうやったら役立てることができるか考えて講義を受けて欲しい。
教育学部は教師を育てることが目標だろうけど、それ以上に今生まれている子供たちをちゃんと育てるための人を育成する場所でもあるはずだろう。
自分は教育学部に入るとき夢があった。書くのは恥ずかしいが、理科が好きな子供を一人でも増やしたいという無謀な夢が。それは中学の理科の先生…自分の恩師が自分にしてくれたこと。
理科は難しいものじゃなくて楽しいものだ、それを教えたいと思っていた。
現実の前に無理だと気づいたのが遅すぎた。
今教育学部にいる人でほとんどは教師になるかもしれない。一部は教師にならない道を選ぶ。
教育学部に来たから教師になる、それだけが道じゃないと思う。
自分は教育学部に来てよかったと思う。いろいろと知ることができたし。大学で道を変えても良いんじゃないかな、と思う。